昭和40年男【EXPO’70と太陽の塔】

クレタパブリッシングが刊行している、昭和40年生まれの男性限定情報誌『昭和40年男』(2018年5月11日発行)で、「EXPO’70と太陽の塔」というページの執筆を担当しました。

ここでは元原稿を掲載しておきます。

『昭和40年男』

昭和40年男

大阪万博は、人々が輝かしい「未来」への想いをはせる夢の空間だった。しかし、そこに奇才・岡本太郎は末来を否定する「太陽の塔」を打ち立てた。太郎の意図したものは人類への謳歌か、それとも警告か?

“明るい未来”総決算の場に仕組まれた“原始力”
EXPO’70と太陽の塔

未来を投影した世界に降臨した太陽の塔。

 1970年、大阪は千里丘陵で日本万国博覧会、通称、EXPO’70(大阪万博)が開催された。
 当時を振り返ると、過激派学生によるベトナム反戦運動と第2次反安保闘争が激化していたし、公害も問題視されていて、世間には不穏な空気が漂っていた。しかしながら『これからは豊かになれる』と誰もが夢を抱く泰平ムード漂う高度経済成長期の真っただ中にあり、どちらかというと日本国民は好景気に浮かれていた。そんな影と光が交錯する時代に大阪万博は開催されたのだった。
 前年の1969年にはアポロ11号が人類初の月面着陸を果たしており、1970年は確かに「未来への入り口の時代」だったとはいえる。
 事実、大阪万博に燦然と立ち並ぶパビリオンたちは競って未来を描いた。最大の呼び物はアメリカン館に展示された「月の石」。アメリカは宇宙開発をフューチャーし、来るべき時代のファンファーレを高らかに鳴らした。これに対抗すべくソ連も宇宙開発を大々的にアピール。両国が送り込んだ、それまで見たこともない巨大なロケットの“現物”を前にした来場者の興奮は収まらなかった。
 もちろん、日本のパビリオンも負けてはいない。三菱未来館は円谷英二映画監督の制作による気象活動や海底牧場などの末来を特撮映像で大スクリーンに投影した。子供に人気があったのは自分で操作するもので、例えば自動車館の「交通ゲーム」がそれ。これは交通事情を緩和するためにコンピュターを導入した新しい交通システムを実際に体験できる、というもの。また、日立グループ館の自分で操縦して空中旅行を楽しめる「シミュレート・トラべル」にも熱い視線が注がれた。
 そんな、大阪万博の会場にあってひときわ異彩を放っていたのが「太陽の塔」だった。
 今も大阪万博跡地の記念公園に鎮座する太陽の塔だが、これはモニュメントとして単体で存在したものではなく、大阪万博が掲げる統一テーマ「人類の進歩と調和」を可視化するため「テーマ館」のひとつとして建築されたものだ。

 会場にテーマ館を設けようという話が出たのは1966年のこと。その展示プロデューサーとして抜擢されたのが芸術家の岡本太郎だった。太郎には展示構想の立案から展示作業、演出、指導の総てが任された。
 当初、打診されても「組織の仕事などできない」と渋っていた太郎だったが「お任せします。口は出しません」と食い下がる万国博協会の言葉に心を定め、重い腰を上げる。1967年、モントリオール万博を視察した際、太陽の塔を構想し、簡単なスケッチを宿泊先のホテルのメモ用紙に描いた。
 テーマ館の設置予定場所はすでに建築家・丹部健三によって基盤施設計画が進められており、30mの高さに大屋根が建つことになっていた。ところが太郎はこの大屋根に穴を開けたい衝動に駆られ、大胆にも高さ60mもの太陽の塔を突き抜けさせることを決める。このプランは周囲の反対を押し切って実行されることとなる。この時から太陽の塔は異質な存在だったったし、事実、姿を現したのは誰もが度肝を抜く、トーテンポールのような姿だったのだ。未来を追い求めた大阪万博において、お腹に顔を抱く太陽の塔は明らかに異質で、口を開けて見上げる誰もが「なんかヘンなやつ」と思っていた。

 万国博覧会(国際博覧会)の歴史を紐解くと第1回がロンドンで開催されたのは1851年のこと。この時、クリスタル・パレス(水晶宮)が造られた。また、1889年の第4回パリ万博ではエッフェル塔が建設されている。いずれも歴史に名を残す建造物だ。では太陽の塔はどうか? 本来、大阪万博のモニュメントとして永久保存されるべきはエキスポタワーだった。それが太陽の塔と一部の施設だけが今の世に引き継がれた。誰にも壊すことのできなかったもの、それが太陽の塔という存在だったのだ。


太陽の塔はその体内に人類の遺産を宿していた。

 テーマ展示プロデューサーを任された太郎はテーマ館を、地上─現在、地下─過去、空中─未来という3つの独立したスペースの複合体とするプランを立てた。そして、それぞれが独立しながらも相互に有機的に響きあい、全体でひとつの壮大な宇宙観を表現することを目指した。これは東洋の宇宙観である〈まんだら〉に通じるもので、哲学的、芸術的に独特な空間構成を太陽の塔ともに大阪万博の象徴たらしめんと意図したものだったが、この構想は難解なものだった。
 現在、過去、未来の3つの展示があるものの、太郎は地下の過去の展示にこそ注力していたように思える。太郎はテーマ展示サブプロデューサーにSF作家・小松左京を任命すると地下展示の担当を依頼する。
「小松君はSFを書いているから、本来は空中の『末来部門』をやってもらうべきであるが、彼の重量を考慮すると、展示空間の構造の安定上、地下をやってもらうのがふさわしいと思った」というのがその理由。太っていた小松を茶化したようなコメントだが、『小松なら自分が思い描く展示にしてくれるだろう』という読みと信頼があったのだろう。
 過去の展示は人類の本質を捉え、人類の歴史をビジュアライズさせるという難題に挑戦し、そして見事に描いて見せた。
 また、「心の森」と名付けられた空間には、世界中から古い時代の生活用品が集められた。この収集は太郎が特にこだわったプロジェクトで、この時に集められた民族資料は後に「国立民族博物館」の基礎資料となった。太郎が残したものは太陽の塔だけでなく、スピリッツそのものだったのだ。

 大阪万博は「人類の進歩と調和」という壮大なテーマを掲げた。多くのパビリオンは「進歩と調和」から“明るい未来”を描くことに躍起になった。しかし、太郎は「人類」に着目し、“根源の世界・原始の力”こそが大阪万博だと謳った。

Client

クレタパブリッシング

Media

昭和40年男

Category

雑誌